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多摩川の上流

海に生きる八幡暁の”足元サバイバル”#3~故郷の川、多摩川~

沖縄県石垣島を中心に活動し、世界の海を渡った数々の記録を持つ八幡暁(やはた さとる)さん。CAMP HACKの連載では、「足元サバイバル」というテーマで語っていただきます。身近にあるものや、身体一つを大きく使いながら生きている八幡さんの人生に触れていきましょう。第三回は東京都を流れる多摩川を上流から下ってみたことを語っていただきます。

目次

皆さんの生まれ育った故郷に、川は流れているでしょうか。

日本は降水量が年間1000ミリを越え、森が国土の67%を覆い、水が豊富な国です。大きな河川が近くになくとも、湧水や小川、雨、何かしらの水にまつわる幼少期の記憶があると思います。

わたしにとっての川といえば、多摩川です。小学生の頃は、放課後、よく川に行って遊びました。立ち入り禁止の堰に入って泳いだり、魚を釣ったり、火を熾したり、飛び込んでみたり。この水って、どこまで流れていくんだろう? 空想したり、ぼーっとしたり、大人に邪魔されず、何でもありの遊び場でした。

が、大人になるにつれ、スポーツや勉強、ルールと成果に追いつ追われるようになり、自然の中で遊ぶことから遠ざかっていきました。

大人になって、多摩川を少し調べてみると……

多摩川

わたしが育った東京都羽村市には、歴史的にも重要な場所がありました。羽村取水堰です。玉川上水の取水堰でもあることで知っている方もいるかもしれません。江戸時代、都へと暮らしの水を引くため、また農業用水として、1654年、羽村から四谷まで水路を半年かけて掘ったものです。多摩西部から武蔵野を通り、現在の新宿付近を通り、最終的には多摩川と同じく東京湾へと流れ込みます。

当時、水質を保つため、洗濯、漁、チリの投棄などは厳しく取り締まられていたというから驚きです。さらに両岸5メートル程は、保護地域として植物の伐採も禁止であったとか。今の時代に、自分の家庭排水に注意をして下水に流す人はどれだけいるでしょうか。

現代で出来ていないことが江戸時代に出来ているという歴史的事実は、この水路が、どれだけ江戸の暮らしにとって大事であったかのバロメーターでもあります。

多摩川を、少し俯瞰してみます。

多摩川の景色

東京湾へは多摩川、玉川上水だけでなく、関東全体の河川の出口になっているのです。水害も多かったと聞きますが、山からの栄養や、砂利などを河口へと運ぶ大切な道でした。河口は低湿地を形成し、命のゆりかごと呼ばれる場になっていきます。それらが海や川の生き物を育み、江戸前という「食」をもたらし、人の暮らしを育んでいたと言って過言ではありません。

河川とは、人間でいうところの血管の役割を果たしているのです。

時代は進み、都市化が進み、河川はコンクリートによって護岸され、河口は埋め立てられ、人の都合によって自然環境が切り離されていきました。「食」は足下から消え、徹底的に効率化された食べ物が世界中からかき集められるようになります。

良い悪いは別に、グローバル化とは、そういうことらしいのです。便利である一方、何を失ったを考えれば、自分の暮らしぶりが痛ましくも思えます。

嘆いていても、仕方ない。漕いでみよう。

多摩川の上流

折角、東京近郊に戻ってきたのだから、行くのであれば、幼少期から遊び場にしていた多摩川を一度上流から下ってみよう。トムソーヤのように冒険みたいで楽しかった掛け替えのない時間と仲間を思い出しながら。ノスタルジーもあいまって、何日かにわけて、行けるところまで漕いでみることにしたのです。

東京都の御岳は、東京近郊に住む人が日帰り登山に行くフィールドとしても有名ですが、多摩川上流のこの地は、美しい渓谷を作り出しています。そのため、カヤックやラフティングを愛好する人達の遊びの場にもなっていました。駅からのアクセスも良いので、ここから川を下っていくことにします。

一度、カヤックを川に浮かべると、道路は遥か頭上になり、大きな岩の壁が迫ります。圧倒的な存在感。人工物も見えなくなり、水は透明で、泳いでも、潜っても遊べるような様子です。小さい頃は、水中マスクをつけて泳いでいたことを思い出します。小さな瀬を越え、岩をすり抜けていかなねばらず、否が応でも心臓がバクバク。子供だって大人だって、ワクワク、ワナワナは変わりません。緑と岩のコントラストを見ているだけでも飽きませんでした。

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