お隣さんの奇跡。商人と職人のマリアージュ
「お隣さん」といえば、民家やまち、国にいたるまで古今東西いろいろあるもの。とはいえ三条市と燕市は、天候や災害に左右されやすい農業以外の「新たな価値を生み出す」という共通の目的で強く結ばれます。そしてそこに天の配剤が。両市は異なるキャラクターを持ち合わせていました。三条市は職人もいましたが、商人のまちとして、燕市は職人のまちとして、それぞれの分野で非常に高いレベルでした。その両者が力を合わせます。
燕市で育った職人が技術を磨き、三条市の商人が全国に販路を開拓していきます。河川は当時の主要交通道路。氾濫に悩まされる一方、信濃川を利用した流通が発達し、燕三条を出た商品は6日後には関東に届けられた、とも言われています。
この二つのまちによる二人三脚が”燕三条”という「一つの価値」へと収斂していきます。
和釘は伊勢神宮で使用されるほどの価値に
燕三条の和釘製造技術が全国的に脚光を浴びるきっかけとなったことを伝えるエピソードがあります。
神社本庁の本宗、あの伊勢神宮の式年遷宮でのこと。伊勢神宮では約1300年前から20年に一度、正殿や社殿を造り替える「神宮式年遷宮」が行われていました。しかし第61回目となる1993年の遷宮の際、三重県内の技術継承者がいなくなる事態に直面。そこでお声がかかったのが遠く離れた新潟県の三条市でした。
伊勢神宮からの和釘と金具の製造依頼は、職人や地域の人たちにとっても”国の誉”と言える大きな出来事と言えるかもしれません。このチャンスを見事物にしたことで、燕三条のブランド価値が全国規模になっていったきっかけの一つになりました。
軽やかに時代に適応。新たな価値創造へ
和釘でその名を全国に知られるようになった燕三条。しかし明治初期、時代の流れが大きく変わります。
海外から黒船襲来のごとく洋釘が押し寄せます。機械による廉価で大量生産された洋釘により産業構造が一転、和釘の需要は激減してしまいます。
それでも燕三条は挫けない、そこにはゼロから価値を興した強みがありました。
「俺たちの和釘が売れなくなったってよ」
「じゃあ、別のモン作るか」
そんなやりとりがあったかどうか定かではありませんが、燕三条は信濃川の氾濫を好機に代えたように、今回もピンチをチャンスにできるのか? サバイブしていくには「ニーズのあるモノ」を作る必要がありました。そんな状況を経て、燕三条に消費者目線に立った商品開発が根付いていったのでしょう。
和釘職人は当初、鍬などの農工具や、ヤットコ(鉄ハシ)などの生活用具の金物製造に転じ、さらにその技術を活かし「キセル」、「鋸」や「ナイフ」などの刃物鍛治製造へシフトさせていきます。商人と職人の複合体は、これまで積み重ねてきた価値を時代のニーズに懸命にアジャストさせていきます。
金物製造をバックボーンに、世界レベルのブランドが生まれる
燕三条の金物製造は瞬く間に国内屈指の産業へといたります。そうした歴史を辿り、キャプテンスタッグブランドを生んだパール金属創業者 高波文雄氏、スノーピークの前身である山井幸雄商店の創業者 山井幸雄氏らが三条市に金物問屋を創業。
この2社につづき、醸成していった国内アウトドアレジャーブームを受けて、ユニフレームブランドを生んだ新越ワークスの前身である新越金網製造工場創業者 山後信二氏も燕市にアウトドア用品販売会社を設立します。