商人と職人が生んだ価値”燕三条”が世界を席巻。「モノづくり最重要スポット」の実力と背景
アウトドアに精通した方なら一度はその名を耳にしたことであろう”燕三条”。みなさんはいかにしてモノづくりのまちとして確固たる地位を気づいたのか、知っていますか?調べてみると、そこには興味深い歴史がありました。今回は、その歴史をご紹介します。
2022/09/16 更新
編集者
CAMP HACK編集部
月間550万人が訪れる人気No.1キャンプメディア『CAMP HACK』。累計制作記事本数は10,000本以上。環境省等の行政機関、「髙島屋」や「niko and ...」といったクライアントとの連携実績多数。また、TBSテレビ『ラヴィット!』等、各メディアで登壇機会多数の編集部員も所属。
CAMP HACK編集部のプロフィール 制作者
夏野 栄
作家でクリエイター、アウトドアライターでファッションエディター。アウトドア誌やファッション誌で連載するほか、ノベル執筆やプロダクト開発まで幅広く活動。山岳部出身、海育ちのテンカラ師。Tw@nhaeru
夏野 栄のプロフィール
アイキャッチ画像提供:スノーピーク
世界に誇る”燕三条”という価値
提供:ユニフレーム
スノーピークや多くのギアの生産地として知られる”燕三条”ですが、なぜそれほど多くのメーカーや技術が集結しているのか不思議に感じている方も多いのでは?
まず広く使われている”燕三条”という名称は駅名として使われているものの正式な地名ではなく、新潟県三条市と燕市をあわせた地域をさす呼称。二つのまちが作り上げる”燕三条”は、モノづくり地域としてブランド価値を確固としています。
なぜ二つのまちが一つの価値を生み出しているのか? その価値はいかにして築かれたのか? 少し調べただけでページをめくる手を止められない、興味深い歴史がそこにはありました。
川の氾濫で農業は困難。さあ、どうする?
提供:ユニフレーム
燕三条の歴史を紐解く上で避けて通れないのが「和釘(わくぎ)」の存在。後に連綿と受け継がれていく金属加工産業の原点です。
江戸時代、新潟県内を流れる信濃川は度々氾濫し燕三条周辺では農業が困難でした。農家は副業を模索。江戸から和釘職人を呼び寄せ、農業の副業として広めたのがこの地域での和釘づくりの始まりでした。
この食い繋ぐために始まった小さな一歩が、後に世界に通用する価値創造へ繋がるとは、なんとも痛快で数奇なお話し。